サバト考 その四 恍惚

戯 幽(たわむれ かそけ)のオカルト覚書です。

 

絶賛、本と格闘中です。

 

 

全500ページ中、198ページ。もう少しで折り返し地点です。

 

前回 その三 では魔女の、主に魔法について考えを巡らせていました。

サバト考 その三 魔女 - 戯 幽のオカルト覚書

 

さて、前回は150ページ時点だったので50ページほど読み進めた現時点の振り返りをしたいと思います。

 

この50ページで、私が気になったワードは「恍惚」。

 

例えば本の160-161ページは

 

[地図3]ヨーロッパのシャーマニズムを背景とする信仰、神話、儀礼

  • 主として女性神につき従う恍惚状態での旅
  • 主として豊穣のための、恍惚状態での戦い(ベナンダンティ、マッツェーリ、クレスニキ、タルトス、ブルクドゼウテ、狼憑き、シャーマン)
  • 12 夜の間、半獣的存在が出現する
  • 主として12夜の間、若者の集団が動物に仮装する場所
  • 豊穣のための儀礼的戦い(ブンキアドゥルス)
  • あらかじめ定められた人物に死者が現れる場所(ベナンダンティ、アルミエ、メスルタネ)

の地図となっていますが、この中に「恍惚状態」は2回出てきました。

 

地図なのでうまく文章化しにくいのですが、

・主として女性神につき従う恍惚状態での旅 はスコットランド、フランス、ラインラント、イタリア中部ー北部

・主として豊穣のための、恍惚状態での戦い はフリウーリ、コルシカ、イストリア、スロヴェニアダルマチアボスニアヘルツェゴビナモンテネグロハンガリーオセチアラップランド

と書かれています。

 

恍惚状態とは。コトバンクで見てみましょう。

コトバンク

kotobank.jp

 

『世界大百科事典(旧版)内の恍惚の言及
【エクスタシー】より
…意識水準が低下して主体的な意志による行動の自由を失い,忘我状態となるか,苦悶,歓喜,憂愁などの気分を伴う恍惚状態になること。宗教における神秘的体験や,性的恍惚感も含む。…

※「恍惚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」』

 

となります。

 

現在はほかの言葉が主流でしょうか?トランス状態、変性意識状態などと呼ばれることもあります。

 

胡散臭いワード、でしょうか。恍惚感にはおそらく強弱があるので、マックス恍惚状態をどこかで見たらひくかもしれません。

 

でも。引くくらいインパクトがあるということは、特別なことととらえられるわけです。ですので、異端視されるか神聖視されるかは時代次第、場所次第。

 

前回の その三 で、魔女の魔法と呪術をあえて分けました。ひとつは呪術はオカルトというよりも、人類学の分野であると思ったこと。もう一つは、呪術、すなわちシャーマニズム北アジアの魔法体系とする、という説があるからです。後者はWikipediaにも記載があります。

 

シャーマニズムの定義

シャーマニズムの定義は学者によって様々である。 まず地域であるが、北アジアに限られるとする説と、世界中の他の地域で見られる諸現象を含める説がある。

ja.wikipedia.org

 

本書は欧州を舞台としていますし、著者も呪術という言葉を使用していなかったので、私もあえてシャーマニズム要素を取り上げずにきました。

 

しかし恍惚状態に強く意味を持たせるというのなら、やはりシャーマニズムは外せなくなりそうです。

 

それでも著者が、「恍惚状態=シャーマニズム」としていなかったのにはおそらく理由があります。

それが『司教法令集』(Canon Episcopi)  の存在です。

この本は906年に世に出て以来ウィッチクラフト、いわゆる魔法に対するカトリック教会の姿勢を示しました。

 

そこには恍惚状態への記述があります。

『このテクストは、ウイッチクラフト信仰がローマ神話の女神ディアーナへの異教信仰と何らかのつながりがあるかもしれないということを示しているからである。』 

 

『原著者である無名氏は、この「ディアーナの騎行」なるものは「迷信」であり「幻影」であり、そのようなことは実際にあったことではないとの立場をとっており、「ディアーナの騎行」の実在を信じることは真の信仰からの逸脱もしくは異端であるとして非難している。 

ディアーナの騎行、とは恍惚状態下に経験する神秘的経験のひとつ。

騎行とは馬に乗って歩く、よりも攻撃的で騎馬による突撃を意味します。

ディアーナはダイアナ。ギリシア神話ではアルテミス。

ただ、ここで言及されるディアーナは特定の神の一柱を指すわけではないようです。

ディアーナ、ヘロデア、ベンソツィア、ペルヒタ、ホルダ、などの名前が列挙されています。すべて女性のようですが、神とは限りません。例えばヘロデアは聖書において洗礼者ヨハネ殺害で有名なサロメの母親です。聖書では悪人はサロメ自身ではなくこちらのヘロデアであります。

実はなぜ「騎行」なのか、私が読んだ限りでは記載がありませんでした。初期の例では「善き女主人のもとへ向かう」などと報告されていたようです。

それがなぜ、騎行となったかは私の中で疑問として残っています。

 

さてこの『司教法令集』においてディアーナの騎行、または類する恍惚状態での体験をどう意味づけているのか。

答えは「存在する、と思うことが逸脱であり異端」です。

つまり、Aという人間がBという教会関係者の前で「わたしは時折女神ディアーナに付き従い馬を駆る」と述べたとしましょう。このときに教会関係者Bは「それは異端の考えだ、Aを罰しなければならない」となるでしょうか。いいえ。このときBが「ディアーナの騎行が実在する」と考えれば、それは実在を信じたBこそが異端です。

 

もともと教会の姿勢は「そんなものはない」でした。これは徐々に変質し、のちに「魔女に与える鉄槌」という書にて上書きされます。

これはまた項を新たにしましょう。

 

説明があちこちに行ってしまい、わかりにくくなってしまいました。元の問いは、なぜ恍惚状態を重視しながらシャーマニズムと結びつけなかったのか、でした。

私は、教会側のスタンスとして「そんなものはない」があったからだと考えています。

シャーマニズムが成立するにはまずそれがある、と認識されなければなりません。良きにつけ悪しきにつけ、「ある」と評価されはじめて教会の判断がなされます。

 

しかしこの『司教法令集』の時代においては「実在を信じることが異端」です。ですので先ほどのA,Bの人間の例では、Bは「Aは信じるに値しないたわごとを言っている」と考えるのが正解になり、特に問題視することもありませんでした。

 

シャーマニズムという言葉を北アジアを基本とし、アフリカ、東アジア、新大陸の習わしに用いることが多いのは、キリスト教の影響の強弱や時代背景によって受け取り方がまるで異なったからではないでしょうか。

 

こうして、恍惚状態を一つのファクターとしながらシャーマニズムと直結しなかったのでは、と思います。

 

オカルトや人類学的なものが好きな方だと、自分も含めてですがトランス状態なのにシャーマンではない、という点に強く違和感を覚えたわけです。

 

さて、「恍惚」をキーワードにした記事はここまでにします。本当は、どうやってトランス状態に入ったのかも興味があるのですが。世界のシャーマニズムは薬物などでトランスしシャーマンとしての力を発揮するのが定番、と思いますので。

トランスが必須なのか?についてはまた異論が。例えば、カルロス・カスカネダの書いたメキシコのシャーマンについての本。最初は幻覚作用のある植物などから始まるのですが、やがて「戦士の生き方」という内容になります。こうなると、トランスは必須な要件ではないようです。

 

カルロス・カスカネダの著作はまたどこかで触れたいですね。

 

ひとまず切りとしましょう。今回はキリスト教会側が「恍惚状態における不可思議現象」と認識していながら、どうして異端としなかったのか、についてのお話をいたしました。

 

次は…。本を読み進めることが一つ、それから誤解も多い異端審問とは、という話、になるかもしれません。予定は未定です。