サバト考 その一

戯 幽(たわむれ かそけ)のオカルト覚書です。

 

さて、全国厨二病とオカルティストとダークな感じのバンド好きなら誰でも知ってるワード、サバトです。

 

ベナンダンティを取り扱っていたわけですが、最終的に彼らはサバトに参加していたとして処刑されます。

 

そこで、「サバトとは何であるか」が疑問として湧いたのです。

 

Wikipediaではこのように書いています。

サバト (Sabbath、Sabbat) とはヨーロッパで信じられていた魔女あるいは悪魔崇拝の集会。魔宴、魔女の夜宴・夜会ともいう。ヨーロッパでは土曜の夜に魔女が集会を行うと信じられ、中世から17世紀ごろまでサバトに参加した罪を告発されて裁判にかけられた無数の人々の記録が残っている。しかしそのような集会が本当に行われたという信頼に足る記録はなく、サバトについて書き記されたことの多くは故意に作り上げられた虚報か、人々の想像の産物とも考えられている。

サバトサバト (魔女) - Wikipedia

 

演繹的と言いましょうか、はっきりと「これがサバトである」と定義した上で当てはまるものを裁いていたわけではないのですね。逆に帰納法的に、いくつものサバトらしい要素を足し算してサバト像を作り出したのかもしれません。

 

逆を言えば、これは確実にキリスト教的である、と明確であったものも少なかったのではないでしょうか。そもそも異端審問自体、同じキリスト教にも関わらず意見の相違があったために存在したのですから。

 

そこで話を変えますと、以前取り扱いましたベナンダンティ。彼らの悪しき魔女との戦い、「夜の戦い」がすなわちサバトであると断じられ、ベナンダンティはあっという間に歴史から消えました。しかし当のベナンダンティ達は正義のために、言い換えれば神の旗印のもとに戦っていたと証言しています。にも関わらず拘留され、拷問もされ、最終的には「自分たちが参加したのは魔女のサバトだった」と自白させられるに至ります。

 

そこで考えさせられるわけです。神の正義を実践していた(直接神の声を聞いたわけではないが、少なくとも天使に導かれたとは証言しています)彼らはなぜサバトと扱われたのか。

 

資料を読む限りだと、彼らベナンダンティをその土地の風習も保持しているだけの、素朴かつ信心深い人たちです。

 

確かに一神教において、現地宗教や風習をどうするかというのは重要な課題です。これが多神教ですと、例えばローマ人なら憧れのギリシアの神々を自分たちローマの神々とニアリーイコールで結んでいきます。また、図版を拡大するにしても例えばエジプト神話を全否定したりはしていませんでした。

 

キリスト教も異文化への布教に際して、現地風習を取り込んだりもしています。例えばハロウィーンは元々ケルト人の文化です。北欧神話の神々は曜日の名前として引き継がれてますし、ギリシアの神々は月の名前として残りました。

 

もっとも、他の宗教を悪魔にしたりもしているのですが。例えば蝿の王ベルゼブブは、カナンの主神バールを貶めたものと言われています。

 

魔女狩りにおいては「魔女へ与える鉄槌

というバイブルが存在します。Wikipedia記事を引用しますと、

1490年、教会の異端審問部はクラーマーを弾劾したが、同書は魔女狩りのハンドブックとして読まれ続け、1487年から1520年までの間に13版を数えた。1574年から1669年までにさらに16版が印刷された。

となります。

 

しかしこちらも、魔女狩り目的のためにそれらしいものを収集したもの。後出しです。先に存在したわけではありません。

 

このように、「サバトとは魔女が行っている冒瀆的集会で、魔女とはサバトに参加する者たち」とループしてしまいます。

 

兎にも角にも私の興味としましては、なぜ神の正義と信じて細々と続いていた土着信仰のベナンダンティが、かくも執拗に迫害され絶滅されたのか、が気になっております。

そのためにはサバトとは何か、考える必要性を感じる次第です。

 

 

 

 

ベナンダンティ もっと深く その4

戯 幽(たわむれ かそけ)のオカルト覚書です。

 

以前、ライトな本を参考にしました、と述べました。

 

そこで、専門書としてこんな本もありますと紹介したのがこちら。「ぶ厚くて読めないっす」と言っていたのですが、結局買いました。

 

それから、ついでにこれも。

 

傍から見る分にはいい響きですよね、サバト

しかし当時の当事者にはたまったものではないので、不謹慎な発言だと自覚はしております。

私が受けた印象としては、「サバト」とは教会側の、「僕の考えた悪いこと100選」を基にどれだけこじつけたか、だと感じました。このサバト論はまたどこかでやりましょう。

 

さて、ベナンダンティに話を戻します。

異端審問や魔女裁判というと「密告されて」というイメージがあるかもしれません。

しかしベナンダンティに関して言えばそうではありませんでした。この一団が教会側に認知されたのは、粉挽き屋のピエトロ・ロターロが「自分の子供が魔法にかけられたが、それを解くまじないを教えてくれた」と述べたのが発端です。

 

そこでまじないを教えた人物、パオロ・ガスパルットが、自分はベナンダンティという一団の所属であると言ったのです。

 

当初、教会側は興味は持ったものの異端審問の対象とは認識していませんでした。そのため、ガスパルットも特に隠すでもなくベナンダンティとして行っていることを話しています。

 

ベナンダンティは、同時に敬虔なキリスト教信者でもありました。当然てすが両者は矛盾するものではないため、両立は可能なはずです。

 

変化が起きたのは、1580年。異端審問官のフェリーチェ・ダ・モンテファルコ修道士が前任者(ジュリオ・ダッシージ異端審問官)が5年前に残した審問を再開しました。

5年を経て異端審問の風向きが変わっていたのか、当初、ガスパルットは否認します。しかし一日牢に入れられ重い口を開き始めました。

この記録を読む限り、少なくともガスパルットは「神の保護や意志のもと」ベナンダンティとして戦っていると認識していたようです。

しかし、「天使が現れて戦いに誘う」と答えたとき、事態は動きました。異端審問官は、「その天使は悪魔である」という前提のもと、既知のサバト像に結びつけるように誘導尋問を開始したのです。

これをきっかけに各種の幻視体験すべてをサバトと決めつけられたようです。最終的には破門にはされずに済みました。しかし、

同日、二人のベナンダンティは「多くの人々が聞く前で」判決文の申し渡しを受け、過去の過ちの放棄を厳粛に誓った。

ベナンダンティ』カルロ・ギンズブルグ

命を取られはしませんでしたが、今まで神の旗印のもと行っていた正義を全否定された彼らの今後を考えると暗い気持ちになります。

なお、本の中では同時期に別のベナンダンティを取り上げておりますので、二人となっております。

 

異端審問や魔女狩りでは被告人の財産を没収できるなど「旨味」がありました。そうした観点で観ると、このベナンダンティの件は現世的利益が無いように見受けられます。

その分、より純粋に「信仰」の問題であった、と言えるでしょう。

 

ギンズブルグの著書ではこの後に教会側はどのようにサバト像を形成していったのかにも言及しています。

今後もマニアックに進めていきます。

ベナンダンティ もっと深く その3

戯 幽(たわむれ かそけ)のオカルト覚書です。

 

ベナンダンティ、そしてクルースニク・クドラク は、「羊膜」で繋がりました。

それから、もう一点、気になるところを。

 

まずは地図を見てください。

 


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ベナンダンティはイタリア北東部のフリウーリ地方。

そしてクルースニク・クドラクスロベニアの伝承です。

実は地理的にこれだけ近いのです。

個々に見るとベナンダンティはイタリア、クルースニクはスラブ圏と紹介されることが多いため、私も地図を見るまで気づきませんでした。そもそも、私がクルースニクの「スロベニア」を「スロバキア」と勘違いしていたこともあるのですが…。こうしたとき、Wikipediaはリンクがあるので便利ですね。

 

イタリアとはいえ、フリウーリ地方は長靴の北東部、独自のフリウーリ語も持つほどの異なった文化を擁する地域です。

 

イタリアと言えばローマ、ローマと言えば記録好きのイメージ。ですので、なぜ魔女狩りの時代まで歴史に現れなかったのか気になるところですね。

カエサルガリア戦記を見ると、ガリア人(ケルト人)の勢力権がローマから見て北西、フランスやイギリスにあったので、ローマ帝国の繁栄する方向が北西だったのか?しかし、地中海はアフリカ北部、ギリシャなど東部も支配していたはず。フリウーリ地方が漏れていたのも不思議です。

 

でも、プリニウスの博物誌は地中海沿岸を通り、そのまま東に行きますよね。通商のルート上の記録が残り、探検的に中央・東ヨーロッパに足を伸ばすことがなかったのかもしれません。

現に存在を知られていたアフリカ大陸も、地中海に面したカルタゴなどは歴史にありますが、それよりも南は記録されていないかと。

 

そうなりますと、今でこそ同じイタリアですがフリウーリ地方は意外に手がつけられていなかったのかもしれません。

 

さて、お隣のクルースニク・クドラク。こちらはゲーム女神転生の影響で名前は有名ですが、資料はあまり見つかりませんでした。

少なくとも、「女神転生のキャラクター」以上に突っ込んだ資料がなくて。

あとはこうした本ですね。

 

 

オカルト、というよりファンタジー好き御用達の新紀元社様です。

 

今回はクルースニク=ヴァンパイアハンター、クドラク=ヴァンパイア

の構図にしていますが、この「ヴァンパイア」も奥深いものですのでいずれ解説したいものです。

 

情報が少ないのはスラブ圏、もっと言えば旧ソ連の影響下にあったから、もあります。ソビエトは土着信仰や風習の弾圧を行いました(これらは共産党社会主義思想からではなく、スターリン個人に依るところが大きいことを明示しておきます)。こうした政策により、スラブ人の神話は失われたと言われています。その復権に尽力したのが画家のミュシャです。ただ、ミュシャはやや政治的思想のもとでの文化復権であったのは否めません。つまるところ、神話の失われた世界にあると言えるでしょう。

 

話が散らばるのは逆に面白いてすね。

 

思いつきですが、「なぜこれほどの共通点を持ちながら、ベナンダンティはヴァンパイア伝説(クルースニク・クドラク)に統合されなかったのか」が気になります。

ベナンダンティのWikipediaには

最初にベナンダンティの伝統について研究した歴史学者はイタリア人のカルロ・ギンズブルグであり、彼は、1960年代初頭から、現存する裁判記録の調査を始め、ついに『ベナンダンティ 16-17世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼』を出版した。ギンズブルグの証拠の解釈では、ベナンダンティは「豊穣の儀式」であり、ベナンダンティのメンバーは「収穫と豊穣の守護者」であった。彼はそのうえ、ベナンダンティはより広い範囲の、リヴォニアの狼男の信仰の様な、キリスト教以前に起源をもつ、ヨーロッパの幻視体験の伝統の中で残っていたものの1つに過ぎないと主張した。[1]様々な歴史学者がすでにギンズブルグの解釈の仕方に基づいて研究を進めてるか、もしくは異議を申し立てている。

とあるように、人狼伝説との混同はあったようです。そして長らく、吸血鬼と人狼はほとんど同じ扱いでした。例えば吸血鬼が狼に変身したり、です。

 

ベナンダンティは善の魔術師を自認していました。悪の魔術師をマランダンティと呼び、明確に区別しています。

このように正義・悪、狩る側・狩られる側があり、その構図はクルースニク達と重なります。

 

ここまで同一でありながら、なぜ別種の伝承として残ったのか。

 

こうした答えの出ない問を延々と考えるのは楽しいものです。

 

 

 

 

ベナンダンティ もっと深く その2

戯 幽(たわむれ かそけ)のオカルト覚書です。

 

引き続き、ベナンダンティをとりあげます。

 

さて、Wikipediaに興味深い文章がありました。

 

フリウーリの人々の習慣では、ベナンダンティは生まれた時から運命づけられた先天的な力だと考えられていた。[2]特に、後々ベナンダンティとなる人は頭を羊膜または羊膜嚢に包まれて生まれてくると広く信じられていた。[3][4]当時のフリウーリの民間伝承では、羊膜は魔術的な力とともに与えられ、兵士を危険から守り、敵が手を引くように仕向け、訴訟において弁護士が勝利するのを助ける能力と関係があるとされた。[5]その後の時代では、イタリアの多くの場所で、魔女が羊膜に包まれて生まれてくるという信仰をもった、フリウーリの民間伝承と関係する言い伝えが見つかった。[5]

ポイントは「羊膜」です。

さて、「クルースニク」と「クドラク」という伝承があります。

クルースニクは生まれついてのヴァンパイアハンターであり、吸血鬼クドラクを狩る者。

そしてクルースニクは白い羊膜に、クドラクは赤い羊膜に包まれてくると伝えられています。

おや、「羊膜」で繋がりましたね。

 

羊膜は妊娠してから赤ん坊を包んでいる薄い膜です。袋、というべきでしょうか。もしくは、ゆりかご。

通常、出産において破れ(破水)て、分娩を促します。

 

しかしごくまれに、「羊膜に包まれて産まれる」ことが実際に起きます。En Caul Birth(エンコールバース)、英語圏ではマーメイド・バース(人魚の出産)と呼びます。

caul 自体、以下のような意味を持っています。

〔子宮内の〕大網膜◆羊膜の一部で、幼児が生まれる時に頭にかぶさっていることがあり、幸運の印とされる。

eow.alc.co.jp

そのcaul に、接頭語の en がついて、「~に包まれた」の意味が付加されます。

 

この「羊膜に包まれて生まれる」現象は80,000人に1人。神聖にしろ悪魔的にしろ、特別視されてもおかしくない確率です。

 

今回は赤、白の区別はひとまず置いておきましょう。というのも、「白い羊膜」「赤い羊膜」という自然現象の裏が取れず…。羊膜は通常、透明です。そこに色がつく、という現象があるのか、調べきれませんでした。

 

さしあたって、「羊膜」というワードでつながった、ベナンダンティとクルースニク・クドラク

実はもう一つ、気になっている点があります。それは次回、もっと深く その3で考えてみましょう。

 

 

 

 

 

ベナンダンティ もっと深く その1

戯 幽(たわむれ かそけ)のオカルト覚書です。

 

ベナンダンティ。

インターネット上ではあまり情報が出なかったので、別のソースから考察をしましょう。

 

参考にした本はこちら。

 

 

…といいたいところなのですが、少し本格的過ぎてまだ読んでいません…。

 

もっとライトに読んだのはこちらです。

 

当時を生きる人々をゲーム攻略本のように解説している本です。

 

インターネットの情報で重視されていたのが「幻視」、「異端審問」でした。

加えてこの本では、「死者との交流」が挙げられています。

日本で死者と語る、というと真っ先に浮かべるのはイタコでしょう。イタコの方々は己に憑依させ、話をします。

ベナンダンティは同様に話をするのですが、憑依させずに直接会話をするようです。

憑依をせずに話をするタイプは、死者との対話だけではなく、精霊との交信を思わせます。ヨーロッパ圏ではキリスト教錬金術の影響か、自然精霊と交流するいわゆるシャーマン的な文化がありません。

また、キリスト教では死者は直ちに天国・地獄、または煉獄に送られ、地上に縛り付けられているとは考えません。建前として。

そんなことを言われても、民衆としては死んだ人と話をしたいという欲求はやはりあったようです。その結果、ベナンダンティは死者と話す

能力を求められました。

この商売がうまくいくかどうかは今も昔も変わらないようで。先ほどの本によると年間1000万円近く荒稼ぎしている猛者もいたようです。

 

ベナンダンティのWikipediaに一つ気になる記述があったので、深堀りはその2もやってみます。

 

 

 

 

 

ベナンダンティ

ベナンダンティ(伊: Benandanti、「善き歩行者」という意味)とは、16世紀から17世紀における、イタリアの北東部フリウーリ地方の農民たちの幻視伝統にかかわった人々のことである。

ベナンダンティ - Wikipedia

 

豊かな実りのために人知れず戦う正義の戦士!のはずでした。また、治療も行う呪医でもあります。

 

しかし。泣く子も黙る異端審問が席巻する中世ヨーロッパ。キリスト教から見れば、人心を惑わす異端そのもの、です。

 

ベナンダンティはいつから存在したのか。実は分かっていません。何故なら、歴史に登場したのは教会により異端の烙印を押されたからで、その後は言わずもがな。

キリスト教と出会わなければ歴史に残ることもなかったかもしれないが、出会ったが故に根絶された。そんな哀れな、おそらくは民間信仰なのでしょう。

 

なお、ゲーム・ファンタジーの世界では、このベナンダンティを狼男としてキャラクター化しているようです。おそらくはウィキペディアの、

最初にベナンダンティの伝統について研究した歴史学者はイタリア人のカルロ・ギンズブルグであり、彼は、1960年代初頭から、現存する裁判記録の調査を始め、ついに『ベナンダンティ 16-17世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼』を出版した。ギンズブルグの証拠の解釈では、ベナンダンティは「豊穣の儀式」であり、ベナンダンティのメンバーは「収穫と豊穣の守護者」であった。彼はそのうえ、ベナンダンティはより広い範囲の、リヴォニアの狼男の信仰の様な、キリスト教以前に起源をもつ、ヨーロッパの幻視体験の伝統の中で残っていたものの1つに過ぎないと主張した

ベナンダンティ - Wikipedia

のくだりからでしょうか。

 

狼男は実在する狂犬病や多毛症などの疾患が伝説化したもの、と言われています。

また、「自分は狼になった」という幻視体験が後代に人狼伝説になったケースもあった、はず(すいません、ここはソースが見つかりませんでした。魔女の変身や飛行が当人の幻視体験である、とした説もあったと記憶しています)。

 

それを踏まえて同様のトランス・幻視経験と括り、このような表現になったのでしょう。

 

ベナンダンティの主な活動はネズミや蝶となって魂が体から抜け出し、豊作のために戦うこと。

…、異端審問待ったなし、ですね…。魔女がサバトに行くのと何が違う、となったことでしょう。

 

現代のウィッチクラフト、ウィッカンの初期指導者のマーガレット・マリーの「魔女宗=古代異教残存物」説

Gardner, Gerald B.

キリスト教以前の土着宗教や民間信仰復権も掲げています。「我こそはベナンダンティの継承者」が現れるのも、遠い日のことてはないのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

孔雀天使 もっと深く

占い好きのパートナーが、引用元の画像を見て一言。

「これ、昼と夜じゃない?」

画像はこちら。

f:id:Tawamure_Kasoke:20240127171239j:image

 

Tawûsî Melek - Wikipedia

 

海外のWikipediaになります。

 

確かに、円の上部が昼、下側が夜に見えますね。

言い換えれば太陽と月。

ヤズィーディー教は太陽崇拝の宗教でもあります。

ホロスコープでは、太陽側が社会的・現実的世界を、月側は内面世界やプライベートを指します。

 

上部は同様の絵柄が続きますので、輝き続ける太陽の象徴でしょうか。

 

逆に下部には建物、それからシンボリックな印象。

イスラム世界では太陽よりも月を重視します。暑すぎる砂漠の太陽は死を意味し、不吉だと捉えるのです。イスラム教とは別物のヤズィーディー教ですが、同じ中東の民として文化を共有している可能性はあります。

 

太陽崇拝と月の神秘化を鑑みると、この画像はただの構図ではなく意味を持っていそうです。

素人考えの直感では、建物は寺院的なものかなと思います。また、白地は護符のようにも見えます。

それから円の最下部を飾るのは三日月ではないでしょうか。

 

なお、ヤズィーディー教の画像検索をすると、そのまま孔雀の彫刻や剥製か、この画像しか出てきませんでした。それだけ、これこそヤズィーディー、というシンボルなんだと思います。あとヒットしたのは、そのルーツをインドに求めるサイトなんかですね。

 

深読みすると切りがない。それが楽しい。オカルト好きってそんな人種だと思います。